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学問を楽しく!

メダカカレッジについて

メダカカレッジは、もともとは、私、大上丈彦の寺子屋のつもりで設立した。

外国では「10歳の大学生」などという人もいるが、日本にはいない。それは制度が邪魔をしているからだ。こういうことを書くとすぐに飛び級の議論や英才教育の話かと思われそうだが、そうではない。もっと自由でいいじゃないか、と言っているのだ。先を勉強する自由があれば、戻る自由も生まれる。安倍政権のときに「やりなおしのできる社会を」というスローガンが掲げられた(スローガンだけで終わった)が、そのための最初の一手は、いろいろを自由にしてやることだ。

自由と野放図は違う。教育には山ほどの制度があり、それらが全て悪いとは言わない。というか、だいたいは良いものなんじゃないかなあ。ただ、一部に 古くなったり、実情にあってなかったりする制度がある。時代に合わなくなったらやめればいいのに、いつまでもやめない。このほど、ゆとり教育からの転換が叫ばれるようになったが、この「ゆとり教育」、ダメそうだと思ってからどんだけ放置してんだよ。教育だけでなく、ありとあらゆるものがそうだ。もう、蓮舫先生にどんどん仕訳されて欲しい。

教育に話を戻すと、現在の制度では、ごくわずかの超優秀な人が(1年くらいの)飛び級をする程度の自由しかない。ということは、逆から見れば、一度「落第」すると回復する術はなく、ずっと遅れたままとなる。そもそも「落第」自体が侮蔑的な言葉だ。また、落第ならまだマシで、退学してしまうとかなり厳しくなる。わからないことを少し時間をかけ、わかることはスピー ドを上げて追いつく、それでいいじゃないか。およそ「習い事」はそうだろう。独学で頑張って、上の学校の入学試験で追いつく、なんてことがあったっていいじゃないか。全ての人が同じ速度で何かをできるようになる、ということこそが幻想だ。街角の英会話教室には、いろいろな世代のいろいろなレベルの人が通っている。同じクラスに30代の人と50代の人が混在することもある。それが普通というものだ。ピアノや水泳や、その他の習い事ならば、例えば「水泳が下手だ」という理由で、「ピアノが初級クラスになる」ことはない。しかし、国数英理社は少なくともそのような状況にある。できる教科は足踏みをさせられ、できない教科をじっくり考える時間はない。ピアノ教室に50歳の手習いで通い始めて、子供と一緒に練習するのも一興だろう。しかし国数英理社にはそれがない。いや、ないわけではないが、なかなかつらい。「やりなおせる社会を作ろう」などというスローガンが飛び出す裏を返せば、現状「日本は受験のレールを一度でも降りると元に戻るのはツライようなシステムだ」ということである。だったらそのシステムを緩和すればいいじゃん。よくわからない議論から始めるから結局ポシャっちゃうんだよね。

大学の受験資格に「高校卒業」が、高校の受験資格に「中学卒業」が、入っている。確かにこれでは、一度レールを降りるとかなりきつい。大検(名前が変わったりしているらしい)などの救いの手もあるが、本来はそういう救いの手を付け足すのではなく、受験資格の制限をはずせば済む話ではないか。うがって見れば、大検を行う外郭団体を作って、天下り先を 確保しているだけではないのか。こういうのを偽善という。いいじゃん、自由に試験を受けさせて。で、合格したら入学させればいいじゃん。入学させていい人をきちんと選抜できるような試験にすればいいじゃん。

例えば大学で考えると、大学の入学に「高校卒業」の資格を必要とするのはなぜだろう。入学試験を5教科で行うとすると、それ以外の、例えば体育や美術、文化祭や運動会といった「集団生活の能力」が「高校卒業」の意味なのか?いやしかし、それだと大検が理屈に合わない。学力の試験は入試でやればいいのだったら、大検は体育や美術や「集団生活」がテスト内容になるだろう。大検という「お勉強」の試験で高校卒業と同等の資格を得て受験が可能になるのだから、大学の入学に必要な「高校卒業」という資格の意味するところは、学力である。高卒の学力を要求した上で、高校の試験範囲で入学試験をするって、なんかマヌケじゃない?人数が多くなり過ぎちゃって困るの?そうやって制限しなくちゃいけないなんて、どこのアイドルのコンサートだよ。結局、無意味な制限によって「レールから降りると戻れない構造」が作られているわけである。そしておそらく、その制限によってトクをする人たちがいる。だから制度は変わらない。レールの上の電車と「全く同じペースで成長する人」以外は全てストレスを抱えた学校生活になる。そして、そんな「平均的な人」などそう何人もいないのだ。

メダカカレッジは、世代を超えて、いろいろな能力を持った人が集まる場にしたい。童謡「めだかの学校」のように、誰が生徒か先生か、となるようにし たい。いろいろな能力に対して、レベルが1から100まであるとして、例えば私が数学Lv.50、英語Lv.50 とするなら、数学Lv.48 の人には教えたいし、数学Lv.52 の人からは教わりたい。Lv.100 の人の講義が必ずしもわかりやすいわけではない、ってところがミソだ。どんなことでも「達人」になってくると、「あとは気持ちですね」みたいな話になってしまう。それはある意味「真理」なのだが、しかしそんなアドバイスは初学者には通じない。一番いい「先生」は同級生だったりするものだ。「ねぇ、さっきの授業のところ、どういう意味?」と同級生に きいたときの説明が、先生よりもずっとうまかったりしたことはないか。それはその同級生君に説明の才能があったのかもしれないが、それよりもおそらくは、先生よりも同級生君の方があなたに近いぶん、「あなたが何に躓いているか」を正確に把握できていたからだろう。私は学問とはそういうものだと思う。 というか、「Lv.100 の人の話を聞くこと」と「Lv.がすぐ近くの『兄弟子』に教えてもらうこと」、そして、「自分も誰かに教えること」、この3つがすべて必要で、それが揃う とうまく回るものだ。

そういった意味を込めて「寺子屋」と言っている。60歳の手習いで、数学をやりたい方、中学生と一緒に学びませんか。私も説明できるところはするし、私も説明して欲しい。私も数学を極めたわけではないので、もっと数学を習いたい。大学の教養学部より先の数学は、自分の専門分野はそれなりにできるかもしれないが、専門外は大学生と同等である。勉強の目的は、単に真理の追究だったり、何かに応用するためだったりするだろう。それは個人個人で違っていい。ただ、それぞれの知恵や知識や経験を持ち寄って、今の自分を少し磨く。あんまり磨くと削られちゃうから、少しでいい。「軽い切磋琢磨を長く続けること」が理想だと思う。自分もそうしたいし、もし他にもそのように思ってくれる人がいるのなら一緒にやりたい、それが私の夢なのだ。その夢は「場」が ないと実現しない。そこで作った「場」がメダカカレッジである。

その昔、NHKで『クイズ面白ゼミナール』という番組があった。その番組は、司会の鈴木健二さんの「知は人生を楽しくしてくれるものです」という台 詞から始まる。今の学生さんは、そうは思っていないんじゃないかな。正直言って、学生当時の私もそんなオッサンくさいことは思っていなかった。でも、それ は確かだと思う。というか、人生を楽しくしてくれるものこそが学問だと思う。ぜひ一緒に楽しんでいきたい。