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学問を楽しく!

『数学のできる人できない人』

荒地出版社;大上丈彦 著

2002年04月刊 (1,800円+税)

タイトルから単純に連想されるような、ただ「できる人とできない人」を分類した本じゃなくて、メダカレ的テイストいっぱいの「メダカレ初心者」向け高校数学入門。『4次元の林檎』よりもひとネタが短めだから、すでに林檎を読んだ人には物足りないかなあ。まあ長編がお好みの読者は林檎の続編まで待ってちょうだい。

***目次***

  1. 数学のできる人できない人
  2. 数学の再構築
  3. 教科書の解読
  4. センター試験
数学のできる人できない人


本書記載のまえがきです。

はじめに

本屋さんをよく見ると『○○ができる人できない人』というタイトルの本がいくつかあった。もしかして流行ってる?
後発で似たようなタイトルの本を出すのは流行に乗っていていいような気もするし、

パチもん臭く

なったような気もするが、今さら変えられんのでこのまま出してしまう。ところで『できる人できない人』というタイトルの本を誰が買うのだろう。まず、できる人はそんな本は普通は買わない。できない人が買うのである。できない人は、その本を買ってできるようになるかというと、きっとならない。そこでまた別の本を買う。そう、

買うヤツは似たような本を何冊も買っている

のだ。それで市場が潤っているから、経済効果としてはいいことなのかもしれないが、

お前らは草食動物か?

と、ちょっと思う。そうやって食い物にされていていいのか?まあ筆者も何度も似たようなタイプの女を好きになり、何度も痛い目にあっているから人のことは全く言えないが、いつまでたってもできるようにならない人というのは、仮に「できる人できない人の違い」をいくら分析しても、分析しっぱなしで終わっちまってることが多いのである。分析結果(しかも、おそらくは正しい)を無視して女に惚れるヤツや根っからの草系は見捨てるとしても、数学に関しては、分析結果を参考にしてきちんとした対策を実行にうつせば、必ず遠からず「できる人」になれる。

それは数学が「技術」だからである。


本書は一応「高校数学」あたりをターゲットにした数学入門であるが、筆者としては別に

高校生だけを読者に想定していない。

高校生なんていう幸せな立場にいる人間は、近くにいる先生に習えばいいんだ。高校生とは、若さというすばらしい財産を持ちながらそれに気づかない人が大多数である愚か者集団(脚注1)である。未来において気づいたからといって、愚かでなくなるわけではないが、「もう歳だわ」とあきらめたら

愚かの上塗り

である。まずは10年前の自分を思い出そう。若かったと思う?

現在の自分は、10年後の自分に
「まだ若いよ」と言われるよ。

だから、心に残したことは今やり始めるべきである。今すぐだ。

脳は衰える。
学び始めに遅いということはないけど、遅いと不利だ。

数学は数ある学問の中でも「激しい系のスポーツ」のように、若いうちに始めないとなかなかできるようにはならない。筆者はアメフトはかなり歳を食ってから始めたが、若いときに(別のスポーツで)初心者だった頃とはワケが違った。昔は何も考えずバカみたいにトレーニングできたが、歳をとってから

それをやると体をブチ壊して御破算になる

というのは大きなジレンマだった。筆者の年齢だと、もう野球選手なら間違いなく「ベテラン」の域である。ベテラン選手がキャンプなどで自己流のトレーニングをする理由は、若いもんと一緒に練習して

壊しちまうと破滅するから

という面も少なくはない。「実力=体力+技術」だとすると、若いうちは体力でなんとかなるかもしれないが、歳をとると確実に体力は衰える。そのときになって「技術を身につけよう」と思っても遅い。選手生命を長くしたいのならば、

体力があるうちに、技術を身につけておくこと

である(脚注2)。慣れれば一発でできることも、習う段階では試行錯誤が必要で、この

「試行錯誤」が体力を要求する

のである。若い頃の試行錯誤は、技術的にはムダかもしれないが、将来的には必ず何かのプラスにはなる。だからやみくもに効率化して、試行錯誤の時間を減らすことに筆者は賛成ではない。数学でも同じで、一見してムダな「試行錯誤」が数学の学力を鍛える。しかし、「だから試行錯誤しろ」は乱暴である。これがまた一見正論に見えるから困りものだ。

つまらないところであえて試行錯誤しなくとも、
いつかはそうせざるを得ない日が必ずくる

から、苦労するのはそのときでいい。苦労を知らなくていいという意味ではない。苦労を知らないと、「初めてのつまらない躓き」であっさりリタイヤしてしまう。苦労話を聞かせるのもいいが、どうせそんなものは馬の耳に念仏だろう。できれば苦労を見せてやる方がいいが、それでもダメかもしれない。仕方のないことだ。苦労は自分の身に降りかかるまでは、残念ながら実感しないものである。このあたり、「ダメでもともと」的なスタンスでいるべきだろう。

通常、数学の本にはあまり「試行錯誤」の過程は書いていないが、筆者の本には書いてある。もちろんそれは、編集方針が違うから。試行錯誤は体力のない人にはつらいから、筆者が少しお手伝いしようというのである。お手伝いしている間に

筋トレして、本当に体力をつけて欲しい。

お手伝いがなくなった時点でできなくなるようでは、お手伝いした意味がない。大事なのは「試行錯誤のしかた」を見ておくことだ。強いチームの練習を見学したら、ついでに

休憩の取り方

も見学しておくとよいのと同じだ。そうすれば自分でやるときの参考になる。これを誰に向かって言っているのかというと、

  • 「昔、数学を一通り習った」くらいのレベルの人(脚注3)
  • 数学の先生(脚注4)

である。この二人が本書の仮想読者である。両者を満足させるような記述が可能のわけはないじゃないか、と思うかもしれないが、可能である、と筆者は思う。それは入門書の性格の問題だ。

「難しい概念を幼児語で語っても、
易しく説明したことにはならない」

は筆者の持論だが、ではどうすればいいのか。筆者の方法は

「新しい視点」を供給する方向性

である。

教科書のような言葉足らずな本は、それに「丁寧さ」を加えるだけで「わかりやすさ」が増す。数学を何か「彫刻」のようなものと考えると、その立体のイメージを伝えるのが入門書の仕事であるだろう。教科書はボロいカメラでそれを見ているようなものである。教科書の説明を丁寧にすれば、カメラが高性能になって画像がよく見えるようになる。普通の高校参考書はこれである。高精細な画像が得られれば「彫刻」の実体にかなり迫れることになるし、「彫刻」のイメージが頭の中に構築できるようになる人も増えてくる。ただし、この時点で今ひとつイメージを作りきれていない人は、これ以上の画像の高精細化は無駄だ。今ある参考書はもう限界に近いくらい丁寧にわかりやすく書かれている。それでもわからないのは「視点が固定だから」である。

「カメラさ〜ん、ちょっとアングル変えてもらえます?」

と言ってみよう。

丁寧な説明をしてもらっているのにわからないことがある。それは双方にとって辛いことだ。双方が自分を責めるという、よくわからない事態に陥るかもしれない。ヘタをすると双方が他人を責めるという、

泥沼な状態に陥るかも。怖っ。

聞き取れなかったことを言い直すことには効果があるが、聞き取れていることを言い直されると、

バカにされているように思われる

だけだ。勝手なもので、できないくせに「くどい」のは嫌いなのである。しかしそれは多くの場合は

質問する側に問題がある。

「同じ説明をされた」と思ったら、こうやって切り返してみよう。

「先生、違う説明はないですか?」

「先生、例をあげてもらえますか?」

あるいは、間違っていることを承知で適当なことを言ってみよう(脚注5)

「先生、例えばこういうことですか?」

そうすると「違うよー、だからさあ、例えばな…」と話が進むことが期待される。

それでもおんなじ説明を繰り返すような先生は、
先生の方にクリエイティビティが足りない。

時間の無駄だから、あきらめて次の先生を探そう。

ところでこういう一連のことを質問者側のせいだけにするのは、ちょっとかわいそうだ。

だって教えてないんだもの。

最近「ディベート」なるものを教育に取り入れようと頑張ってる高校もあるけれど、別にくだらない議論をすることだけがディベートじゃない。意味もわからず取り入れるから、

ただの「へりくつ大会」

になる。自分の知りたいことを相手からいかに聞き出すか。ディベートで学ぶべきは

コミュニケーション技術

のはずだ(脚注6)。こうやって筆者が「質問の仕方」とかを書くと、生徒側先生側の双方から非難されることもある。きっと、「人の心を弄んでいるようだ」ということなのだろうが、そういう人は

落語家や漫才師の苦労を知らない人だ。

テレビで見るような楽しいトークは一見普通に見えるけれども、

普通にみせるところがプロの技術

なわけで、ちっとも普通じゃない。その技術によって我々は弄ばれているだけなのか?そんなことはない。司会者の技術とは、適当な会話を意味もなく盛り上げることではない。むしろ出演者の考えていることや思っていることを正しく引き出して相手に伝えるための、潤滑油たる技術だ。これは訓練によってある程度身につけることができる。プロ中のプロになるためには才能も必要だが、基本的にトークの技術は才能ではない。

安易に才能だと決めつけるような人が、数学もできないんだ。

「やるかやらないかの違い」なのにそれを才能だと決めつけることは、多くの場合、ただの試合放棄である。どんなに簡単な技術も、やろうとしなければ身につくことはない。当たり前のことだ。話を戻すと、数学の先生は教えることのプロだから、ただ「わからない」と質問されたら、説明を聞いてないのか、あるいは聞いてもわからないのかをまず考える。聞いてないのなら言い直すだけだし、聞いてもわからないというのなら別の説明を考えなければならない。必要に応じて会話しつつ、何がわからないのかを聞き出して対処する。先生ならばこのくらいの指導技術は誰でも持っているが、それを上回る「わからない」は

先生もどうしていいかわからない

のである。犬のお巡りさんなら一緒になって泣いちゃうところである。だからそこから先は質問者の仕事。質問の角度を変えて攻めて、聞きたいことを引き出すのだ(脚注7)

というわけで、筆者は「新しい視点」を供給する方向性で、数学のできる人とできない人を同時に読者のターゲットとしたいと思っている。そうすると理論的には本書を読んで意味のない人は、きっと

数学ができる人で、教える立場にない人

だろう。まあ、万人向けの本なんてそもそも幻想である。


本書に書かれていることは、あくまで筆者の推理であり、フィクションである。見てきたようなウソが含まれている。これは「歴史」における「歴史小説」に対応するものだと考えていただきたい。歴史小説のまえがきに「この本はフィクションですよ」とわざわざことわっている本はないだろうが、それは歴史小説が世間的に認知されているからである。本書はいわば「数学小説」なのだが、このジャンルは世間的に認知されていない。まあ筆者が作ったのだから当たり前だが。

数学を無理矢理ドラマにしようとしても失敗するだろうが、何にでも

それにふさわしい表現方法

があるのだ。歴史は「小説」というカタチでエンターテイメントになる。それで楽しいと思えば、もっと学問的な研究に進むもいい。

研究の第一歩は、その道の楽しさを知ること

であるはずだ。数学はとくに、この第一歩が難しいために、多くの人が挫折していく。本書でもしも数学が楽しいと思ってもらったとして、それで終わりでももちろん構わない。歴史小説を読むだけで研究しない人の方が多数であるように。もっと学問的な研究に進むのもいい。世間に良書は既にあるから、筆者の仕事はそれを読めるようにすることだけである。

数学は、普通、学校や予備校からしか情報が得られない。例えば歴史なら、たとえ学校の授業がつまらなかったとしても、本来は映画のように

ロマンあふれてドラマチック

であることを知っている。英語なら、たとえ学校の成績が悪くとも、

人生に楽しみを増やしてくれるもの

であることを知っている。そしていずれも、

「能力的にできない」ということはあり得ない

と誰もが知っている。ドラマは誰にでも楽しめるエンターテイメントだし、英語はアメリカでは子どもでも普通に話している。
実は数学もそうなのである。ロマンがあって、楽しさをくれるものなのである。もし筆者がそれを伝えることができなかったら、それは数学がおもしろくないのではなくて、筆者の語りがヘタだからだ。この本で数学を嫌いにならないで、この本がつまらなかったら、あきらめずに別の語り部を探してもらいたい。もちろん、筆者が魂を削って仕上げたこの本で、数学を好きになってくれれば、筆者にとってこれ以上の喜びはない。



  1. ちなみに筆者は愚か者だったが。若いうちは、部活でもデートでもディズニーランドでも、
    とにかく何か楽しむことである。最悪なのは何もしないことだ。
    筆者は最悪(=何もしない人)ではなかった。

  2. もちろん人それぞれいろいろな考えがあるから、オレは体力を衰えないように鍛え続ける、
    という人もいていいだろう。しかし、そういう熱心な人は自動的に
    「技術」も身についてしまうものだ。

  3. 別に、一度もならっていない中学生も、このくらいのレベルだったりして。

  4. 世の中には思った以上に「数学の先生」は多い。
    アルバイトで家庭教師してるプチ先生さんも含めれば、
    いったい日本に何人の先生がいるのだろうか。
    そういった先生たちの指導技術を向上したら、数学のレベルはどれだけ上がるのだろう。
    わくわくするぜ。直接素人のレベルを上げようとはたらきかけるよりも、
    先生のレベルを上げるほうが簡単かつ効果的だと思う、筆者は。

  5. これは芸能人がクイズ番組でよく使う手で、「白紙答案」を出すくらいなら、
    ボケでもネタでも何でもいいから、とにかく思いつくことを解答しておくのだ。
    これは多少の訓練が必要だが、ただの技術である。
    才能の有無に関わらず、身につけることが可能なものである。

  6. ディベートとなると「説得」の方に重点がおかれやすいが、基本的に
    「議論とは、双方が意見を変える可能性を持っていて初めて成立する」ものである。
    つまり、自分も意見を変える可能性をもって臨まないと無意味なのだ。
    自分が意見を変えるというのは、人の意見を聞くことによってなされる。
    もちろん反論も意見を聞かないとできない。ディベートは雪合戦のような投げあいではない。
    相手の投げた球をよく見て、打ち返すことがディベートなのである。

  7. 芸能リポーターのような貪欲さを参考にしよう。
    筆者は芸能ニュースそのものにはあまり興味がないが、
    芸能リポーターの取材の仕方からは学ぶべきことがたくさんある。


本書ごく簡単な内容解説です。

第1章 言語としての数学

世の中には「算数は好きだったけど、数学はなあ」という人は意外に多い。なぜそうなってしまうのか。

教え方が悪いからである。傲慢だからである。

というか、教えるところが間違っているのである。授業を聞く側が、「教わり方を知らない」のに、ムリヤリ有り難い「教え」を押しつけるからおかしなことになる。きっとそもそも「教わり方を知らない」なんて、発想したことさえないだろう。

それを傲慢だ、というのだ。

「難しい」と言われるもので、本当に難しいものはそれほどないのである。この章では、今まであまり教えてもらったことがないはずの「教わり方」について言及している。

第2章 数学を作り直す

料理学校では、カレーを小麦粉とカレー粉から作る。コンピュータのプログラミングを学ぶなら、今も昔もアセンブラである。どちらも日常の用途としては

全く役に立たない。

カレーなんか、ルーを入れればそれで終わりだし、今どきアセンブラでコーディングをする人は頭がおかしい。ではなぜ、基礎として、そういうことをやってみるのか。

どんな複雑怪奇なシステムも、単純な部品の組み合わせで実現されている、ということを身をもって知るため

である。電子レンジの回路を知らなくても電子レンジを使うことはできる。しかし原理を知らないと、うっかり「魔法」と思ってしまう可能性はある。もちろん我々は電子レンジに慣れているから「魔法」とは思わないだろうが、ジャングルの奥の電気のない村に生まれた「電子レンジを初めて見る人」を想像してみよう。できない人にとっては、数学は魔法のように感じられているはずだが、それはなぜなのか。もうおわかりだろう。そういう人は、

一度自分で作ってみればいい

のである。そうはいっても、なかなかそんなバカなことはしない。できないヤツに限って、「すぐに使える」とか「実用」という言葉に踊らされるんだよね。というわけで、この章では、普通の入門書には載っていなさそうな「数学の作り方」を解説している。論理学、式処理の限界、ベクトル・三角関数・グラフの存在価値、といった数学の小ネタを題材に、数学全体を見渡してみよう。

第3章 教科書の書き方を検証する

この章は第2章で述べたことの実践検証である。教科書の、平行移動・数列の和・複素平面について、それらのアイディアと、「なぜそういう教え方をするのか」をあわせて解説している。いかに高校生がきちんと教わっていないかがわかるだろう。それは教わる側の責任ではない。教える側の責任である。先生は「マジメな優等生」をかわいがる傾向があるが、

そういうことをするとロクなことにならない。

いつの世でも、魅力的なのは「ちょっと不良」だ。

第4章 大学入試センター試験

さらに実践検証を続けるつもりで、センター試験を斬ろうと思ったが、ページの関係で全てを本に載せることができなくなってしまった。本誌では、本文中と関係の深い問題をピックアップして解説しているが、はみ出した分はメダカレからダウンロードできるのでコンテンツのページを参照して欲しい。もちろんこれは、本を買っていない人でもダウンロード可能である。

解説 八木祐紀

八木氏の解説は、解説というより、それだけでひとつの主張となっているようだ。一冊の本に2つの主張があるのは普通ならおかしなことかもしれないが、メダカレ的にはアリである。大上氏は自分の原稿のページは削っても、このエッセイのページは削らなかった。この『数学をできる人できない人』や、メダカレのコンセプトが端的に語られた、わがまま系ショートエッセイ。



本書の誤植と補足です。

誤植の情報を送ってくれた皆様、ありがとうございます。

誤植と補足 <2007-08-21現在>
内容 page 位置 コメント
誤植 p.20 脚注下から2行目 「トミージョン」→「トミー・ジョン」
誤植 p.39 11行目 「<自然数> ::==」 → 「<整数> ::==」
誤植 p.45 3行目 「2を足したもの」 → 「2を引いたもの」
誤植 p.61 2行目 「思わないこと は ないが」→「思わないこと も ないが」
誤植 p.61 下から8行目 「こじんまり」→「こぢんまり」
誤植 p.83 3行目 「数学は算数して」→「数学は算数を」
誤植 p.88 1行目 「発明しようとしているとは」→「発明しようとしている の とは」
誤植 p.102 最下行 「f)β)」→「f(β)」
誤植 p.112 下から2行目 x^2 + y^2 – 9 = 0 または x + y – 1 = 0 です。「=0」が抜けています。
補足 p.134 脚注 脚注でコメントされている2002年大学入試センター試験の解説はこちらです (PDF文書のパスワードは medaka です)。
誤植 p.141 8行目 「0から90°まで」→「0°から90°まで」
誤植 p.170 脚注 句点がなぜか2つあります。もちろん1つで十分です。
誤植 p.183 11行目 「頂点の位置が(−3,4)なら平行移動も(−3,4)だな」 ⇒ 正しくは「頂点の位置が(−3,−4)なら平行移動も(−3,−4)だな」です。
誤植 p.205 17行目 「立場が再弱」 → 「立場が最弱」
誤植 p.227 12行目 「誰かが画期的」→「誰か画期的」
誤植 p.230 あちこち 「…」となるべきところが「・」になってたりします。
誤植 p.234 7行目 「r!」 は左辺の分母ですね。
誤植 p.256 7行目 「a+b の偏角」→「ab の偏角」