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『むずかしい微分積分』

荒地出版社;大上丈彦 著

2003年05月 (1,800円+税)

教科書のご丁寧なレシピをたどっていては、試験に間に合わない。
確かに微分積分はむずかしい。
でもこの本を読めば、たくさんの道具にまごつかないようになるはず。

***目次***

  1. 微分・積分・極限の難しさ
  2. 積分への翻訳
  3. テスト前の微分講義
  4. 一合目から登る微分の山
  5. 極めつけの極限
  6. 再挑戦の微分
  7. 裏口から微分
  8. 微積分のちょっと深みへ
むずかしい微分積分

まえがき

おまたせしました〜、微分積分編です。

当初『4次元の林檎』(脚注1)に含めるつもりだったのだが、分量が多くなりすぎてしまったので別の本にした。早く読みたいというお便りをくれた方、どうもありがとう。どーぞ堪能してください。

本書は1日に1ページずつ進もう、みたいな

トロくさい目標は立てずに

購入したら3日以内に読破してください(笑)。実は、そういうやり方が数学を楽しむコツなのだけれどね。

もちろん本書は読者の皆さんが『4次元の林檎』など読んでいないことを前提に書いているので

初めてでも安心♥

のはずだけれど、「まえがき」の筆者の根本的な主張の部分だけは内容的にカブらざるをえない。筆者の著作の常連さんには無用だろうが、初めての方もおられるし、そのあたり、温かい心で許してもらいたい。


数学ほど「学生時代のイヤな思い出」を一手に引き受けた教科もめずらしいだろう。私自身、ロクな思い出はない。しかし、何をどう間違ったのか、数学でメシを食うようになってしまうから人生は面白い。本書は筆者の講義用テキストを元にしているが、出版にあたって次のことに配慮した。

(1) 受験生向けでなく一般人向け

でも、「受験生向け」ってのはどういうことだろう。難しいのかな。バカにしてるのかな。尊敬してるのかな。高校生はどちらなのかな。よくわからないが、ここでは次のように決めた。

受験生は、数学の好き嫌いは無関係。打算的に行動しがち。

一般人は、公式等の記憶はないけど、数学に思い入れがある。

こういう基準で、「一般人向け」ということで。数学への思い入れといっても、好きな人もいれば、嫌いな人もいるだろう。むしろ嫌いだった人の方ひが、「入門書」には惹かれるものかもしれない。別に受験生が読んでも筆者としてはいっこうに構わないが、受験生は受験があとxヶ月になると「xヶ月で間に合う数学」みたいな本を買うらしい。受験生は精神的に追いつめられがちだからね。もっとも、著者もあまり人のことは言えないが(脚注2)。まあ、私の書く本は、そういう用途には向かないだろう。

(2) 中級向け

世の中に、初級と上級の本は結構あるような気がするが、中級向けが少ない気がする。まあ、「数学中級」というランクが存在するのかどうかは確かに疑問である。数学はなんとなく

できるか、できないか

の学問であるような気もするからだ。そういうことを考えると「中級」をターゲットにした本があまりないのもわからんでもない。本当はよく探せば、中級の人が読むべき本はあるのだが、そういう本は「受験参考書」の棚にはなく、理工書の棚にあったりする。で、

成績的に焦ってる中級者には読まれない、と。

余裕がある上級者はヒマだから読んでたりして、そうすると、上級者はより上級になっていく。そもそも、焦ってる人は、数学が「おもしろい」なんてタイトルの本を見たら

むしろムカつくかもしれないね。

だって、面白くないよねぇ。数学の成績次第で自分の進路がどうなるかって時なんだから。

初級者と上級者の間には、確かに「壁」があると思う。それがいったい何なのかはよくわからないが、確かなことは、

難しい概念を易しく説明しようとして、

幼児語で説明しても、易しく説明したことにはならない

ということだ。初級の説明はわかったが上級の説明がわからない。こういうときは、別角度からの説明を聞かないと先には進めないのだが、受験に縛られると別角度からの説明に耳を傾ける余裕がなくなってしまうだろう。

(3) 算数のできた人向け

算数の得意だった人は、たとえ今の数学の成績がどんなに悪くても

数学ができないわけがない

と、筆者は思っている。きっと、ちょっとした「きっかけ」が足りないだけなのだ。本書の読者として、ぜひターゲットに加えたい。

(4) 大学入試問題を題材にする

これは中級者が手に取りやすいように、という意味もあるが、「モチベーション」の方が大きい。入試問題が理解できれば、数学をやった気がするというものだろう。受験生だろうと一般人だろうと、「大学の入試問題」は相手として申し分ない。微分積分の原理をイラストなどで説明した本はたくさんあるが、問題を解いたことがなければ数学ではなく雑学である。

ただ、本書の構成上、問題数はどうしても少なくなる。リクエストがあれば、いずれ問題集みたいなものを出したいとも思う(脚注3)

(5) 網羅的でなくていいから丁寧にやる

なんとなく、広く浅く知識を持っているよりは、「◯◯のことならアイツきに訊け」みたいになるとスゴイような気がする。だから、どーせやるなら詳しくやるべきだ。本というメディアで「手取り足取り」教えるのはかなり困難な気がするが、本には本のいいところがあるのだから、それを分析して利点を生かせばいい。本の場合には、傍らに先生がいるわけではないので、本の中にある情報でストーリーが完結しないといけない…って、これは「小説」だったら当たり前のことじゃないか。「よく考えてみると、『オウムを捨てに行くだけの話』じゃないか」みたいな本もあるが、それがつまらないわけでも無駄なわけでもなく、立派に存在価値を主張している。数学でもそういう本があっていいよねぇ。

(6) 厳密でなくていいから感覚的にやる

「何らかのことに精通すれば、他のことにも類推がきくようになる」と筆者は信じている。アメフトしかしたことがなければ、大事な展覧会の前にうっかり絵を汚してしまった美術部の部長の気持ちは「きっと、試合前にケガしたみたいなんだろうなあ」と類推するしかない。類推するしかないが、類推することができる、とも言える。全然違うような気もするが、それほどハズしているとも思えない。この「類推できる」という能力は非常に重要である。

新しいことを伝えるためには、筆者と読者で共通の認識が必要なのである。その上で、「◯◯は××に似てるよ」と教えていく。例えば、ある新人歌手について「どんな人?」と尋ねられたとき、「宇多田ヒカルに似てるよ」と言っても、聞いた人が宇多田ヒカルを知らなければ、何の説明にもならないだろう。宇多田ヒカルを知っていれば「ふーん」と思えるだろうが、それでも結局はその新人歌手本人を

見てみないと、わからない

だろう。当たり前だ。数学でも同じく、どんなにわかりやすい説明でも、自分で問題を解いてみないことにはわからないのだ。だから多少厳密でなくとも、説明の段階では

こんなもんか

という内容を伝えられればいい。それを具現化するのは、「教わった側の仕事」である。

(7) 歴史小説のように

本書はもともと講義用テキストだと述べたが、さらにその前身は筆者が大学初年度くらいに書いた原稿である。大学初年度だから、たいした数学の知識もなく(今もあんまり変わらんか…(笑))、いーかげんな記述も目に付くのだが、「勢い」は一番いいような気がする。やっぱり知りすぎると切れ味が鈍る。知らなければ断言できることも、例外を知ってしまうと、「そうは、言い切れないな…」となって、

「〜であることもある

とかいう弱々しい文になってしまう。弱々しい文を書くのは簡単である。間違いではないからだ。しかし、

間違いではない代わりに、役にも立たない。

逆に、あえて間違った文を書くのには非常に抵抗がある。世間からのツッコミはやはり怖いからだ。しかし、教育ということを考えると言い切った方がいいことも多い。

例えて言えば、「胃は何のためにあるのか」で、

  1. 肉を消化する
  2. 食べ物を貯めておく
  3. 胃酸で細菌を殺す

どれか、かもしれないし、全部、かもしれないし、どれも違うかもしれない。進化の過程で「たまたま」こうなっただけで、目的なんてないかもしれない。よーするに、「何のために」なんてわかるわけがないのである。確実と思われた史実や理論も、ことごとく覆されてきた。これが人類の歴史である。しかし、

そんなこと言ったら、全部「わからない」になっちまう。

当たり前だ。どのくらい詳しく言えばいいかは、結局のところ、相手に依るのである。本というメディアでは、読者のレベルがまちまちになるので、この問題はどう解決したらよいだろうかといろいろ考えたが、

最終的に、考えるのをやめた(笑)。

なぜなら、間違いを指摘できるということは、本書より高いレベルでわかっているということだからだ。本書はわかってもらうことが目的なので、筆者がツッコミに耐えればそれですむ話である。それよりも、「役に立たない記述」に埋め尽くされて、つまらなくて途中で読むのをやめられてしまう方がツライ。本というメディアは、自分からは「読んで〜」と声を出すことはできないのだから。

これと似たようなコンセプトの文学ジャンルがある。それは、

歴史小説

だ。小説には武田信玄と山本勘助の会話がしっかり再現されていたりするが、これはどの史料にもない。あるわけない。本当のことを知っている人はいない。ではその「再現」とは何か。

うそ

である。でも、小説とはそういうものだろう。小説は、そんなつまらないところの正確さを求めてはいない。もっと大きいものを伝えたいのだ。だからといって、史実まで曲げてしまっては歴史小説ではなくなってしまう。

「史実に基づき、行間を埋める」

これである。数学でもこういう本があってもいいだろう。ある箇所だけを見れば間違いだが、全体を通して、あるコンセプトで書かれているということが伝われば、読者の方で修正して理解してもらえると、筆者は期待している。

(8) 先生向け

家庭教師などで誰かに教えるときに使って欲しい。別にこの本の通りに教えてくれなんて気持ち悪いことは思わない。

全然別系統の教え方があるんだ

つまづということを念頭に置いて欲しいのだ。初学者の躓きやすいところをちょっと頭の隅においておくだけで、全然違ってくるものなのだ。

(9) ちゃんとオチをつける

もちろん、本書はせいぜい高校数学の範囲しかカバーしていないので、数学という大きな流れではオチをつけられるはずもない。数学というドラマの最後にどんな結末があるのか、筆者が生きている間にはその結末は見られそうにはない。

しかし!じゃあ歴史小説にはオチがないのか?長い話の一部を切り取ってドラマにしても、うまくやればそれなりにオチがつくだろう。これも小説だと思えば当然のことじゃないか。


というわけで、書き始めた当初は「教科書ガイド」としても使えたら予備校の授業のテキストにもなるしラクでいいかなあ、などという甘い考えもあったのだが、結局

とてもテキストにはならないもの

になってしまった。まあそりゃあそうだろう。歴史小説で歴史を教える先生はいないわな。

「微積分の細かい話はもういいから、他の単元も説明してくれよ。」確かにその言い分は正しい。受験を考えるととくにそうだ。一般には、得うか意部分をのばすよりも不得意部分をなくす方が、入学試験に合格るために効果的である。

でもね、

マニアックでいいんだもん!

数学はしょうもないことに「AがわからないとBがわからない。BがわからないとAがわからない」という感がある。

これじゃあ、無限ループじゃん

と言いたくなるが、解決法はひとつ。AでもBでもどちらでもいいから、とにかくわかった気になることだ。そうすると、両方わかる。AがわかればBがわかり、BがわかればAがもっとわかる。わからない悪循環ではなくて、わかる良循環になる。つまり、

最初は、気合!

である。自転車や水泳に苦労した人は多いだろうが、なんといっても第一の苦労は「最初」にある。オリンピックに出ようとするなら話は別だが、基本的に自転車や水泳は、運動神経とあまり関係ない。ママチャリに乗るくらいなら誰にでもできる。数学もそうだ。数学者になるならともかく、大学入試レベルには誰にでもなれる。もちろん、入試がタイヘンでないとは言っていない。たとえ町内水泳大会だって「100m平泳ぎ」で優勝するのはタイヘンだろう。でも、100mを平泳ぎで泳ぎきれるようになるのは、不可能ではないと言っているのだ。それなりの文章読解能力、すなわち、推理小説を楽しんで読めるくらいの読解力と論理・推理力があれば、大学入試の数学くらい、理解できないはずはない。理解できないとしたら、それは説明が悪いからだ。

数学は積み重ねだといわれるけれど、筆者に言わせれば「ジグソーパズル」である。手のつけやすいところから手をつけて、それを手がかりに全体を作っていけばいいのだ。ただ一応、このへんから始めるのがオススメですよ、と文部省(脚注4)が教えてくれている。つまり教科書は、

数学ジグソーパズルの「文部省おすすめコース」

なのである。教科書でわかりやすいと思う人は、別に、教科書で勉強すれしこうばいい。わかりにくいと思う人は、「おすすめコース」が嗜好にあわない人である。別に文部省のおすすめ通りやらなくても、他にも方法はあるはずなのに、実際問題、あまり見かけない。入門書が1種類しかなくて選ぶ余地がないのでは、好きか嫌いかの2択になってしまう。参考書や教科書ガイドの多くは教科書に準拠している。それはそれでいい。そういうものも必要だし、その方が便利なことも多いだろう。しかし、おすすめコースの種類が増えているわけではない。

全然別の入門書が、一冊くらいあってもいいじゃん

と思った。入門書は説明の仕方そのものにもっと変化をつけるべきだ。別角度からの説明が理解の助けになることはままある。他の本と対照したいなら、目次を検索すればよいだけのことだ。

そんなわけで本書は、数学ジグソーの「とある予備校講師のおすすめコース」である。範囲の区切り方も説明の仕方も、教科書とは違うけれど、どちらが好きかはお客さんが決めることだ。もっといいメニューがあるぞ、という先生は(きっとたくさんいるだろう)、自分で提唱すればいいのだ。いやこれは悪い意味ではない。日本ではそういう試みが少なすぎる。

もっと「独自のメニュー」を提唱する先生が

たくさんいてもいいじゃないか。

本書を読んで「オレならもっといいものが書けるわい」と思った方は、ぜひ書いてもらいたい。発表する場が身近になければ、筆者の主宰するメダカレ(脚注5)に投稿して欲しい。いずれにせよ、おいしくない料理が出てきたら、それはシェフが悪いのだ。教科書にせよ本書にせよ、わかりにくいと思ったら

それは著者のせいである。

文部省検定済の教科書は、ウラ表紙あたりにズラりと並ぶ執筆陣がそうそうたる面々で、うっかり悪口を言ったりしたら、先生方の親衛隊から

刺客が派遣されて抹殺されてもおかしくない

感じである。一人一人が筆者の数百倍はエラい人達ばかりなので、全部あわせて数億倍はエラいだろうなと思うが、それでも、教科書の記述が理解できないからといって、自分のせいだと思わないでもらいたい。筆者は今でこそ数学の教科書を書いてみようなどと大それたことをしているが、実は高校2年のときまで、1次関数のグラフさえまともに描けない状態だった。そんな状態だと、

つい執筆陣の権威に負けて、自分を責めてしまいがち

で、筆者も当時は自分を責めていたけれど、本当はそんなことはなかったのだ。権威のカタマリの教科書でさえ理解できなくても自分を責める必要はい。ましてやこの本が理解できなくても、筆者はたいしてエラくないし、

安心して、筆者のせいにしてもらいたい。

それが筆者の願いである。

自分を責めずに、別の入門書を探して、違う説明・自分にあった説明を探す努力をすることだ。絶対的な「いい説明」など存在しない。自分が理解できる説明が「いい説明」なのである。

『4次元の林檎』では第一章がまるまる「剰余定理」に費やされた。なぜ剰余定理からはじめたか、というと、単に筆者の趣味でしかない。本書では微分より先に積分から入るが、これも、ただの筆者の趣味である。アーティストがサビから入る曲を作っても最後にサビを持ってきても、それはそのアーティストの感性だろう。つじつまがあっていれば構成はもっと自由なはずである。そういう自由が数学というジャンルで存在してもいいはずだ。そして筆者はそういう自由を享受できる立場にいる。

ああ、クリエイターは楽しいな。

締切に追われて死にそうになりながら、魂と体力を削ってキーボードを叩いているんだから、このくらいの幸せは味わってもバチはあたらないだろう。ねぇ。

筆者の趣味で作った教科書で、一人でも多くの人と数学の楽しさを共有できたら幸いである。

執筆の機会をくださった、編集の椎野さん、酒井さんに感謝いたします。

  1. 『4次元の林檎』大上丈彦著;荒地出版社
  2. ついうっかり、「7日でできるロック・ギター」みたいな本を買ってしまったりね(笑)。
  3. リクエストしてください(笑)。
  4. 正しくは文部科学省と書くべきかもしれないが、本書では旧科学技術庁の方に敬意を表してあえて「文部省」と書く。
  5. メダカカレッジ http://www.medaka-college.com/


本書の誤植と補足です。

誤植の情報を送ってくれた皆様、ありがとうございます。

誤植と補足 <2005-03-06現在>
内容 page 位置 コメント
変更 全体 あちこち 出版時点では、微分と積分をつなげた人は誰か、ということについて、「ルベーグ先生」というスタンスで書いています。しかし、現在は筆者は「微分と積分をつなげたのはライプニッツ先生とニュートン先生の功績である」ということにしました。その方がより一般的だからです。ソフトバンクアイ新書『マンガでわかる微分積分』や、改訂後の『面白いほどよくわかる微分積分』などはそのスタンスで書かれています。ま、みんなみんな偉いんですけどね。
誤植 p.35 5行目 知らない人には ⇒ 知らない人は
誤植 p.56 脚注 微少 ⇒ 微小
誤植 p.60 7行目 微少 ⇒ 微小
誤植 p.88 下から
6行目
(x^2)^3 ⇒ (x^3)^2
本質的には間違いではありませんが、話の流れからすると、間違ってます。
誤植 p.103 5-6行目 2・2 ⇒ 2・1 です。したがって、次の行も間違えています。
+4 ⇒ +2 ですね。ごめんなさい。
誤植 p.104 囲み内 「f’にgをブチ込んだもの、掛ける行く、g’」→「行く」が余計です。
補足 p.107 10行目 修大さん「バグではないですが、ルートxの微分には、少々、唐突感があります。そこまでの流れが優しく丁寧なものなので、たどりつくことのできた微分初心者にとって、2分の1乗の微分はけっして簡単ではない(ってか無理)と思います・・・どこまで説明すべきか、に万人むけの正解はないと思いますが、16行目「それぞれ微分するのは簡単で」にひっかかる読者は存在すると思います。」

大上「う〜ん、そうですね。 確かにおっしゃる通りだと思います。書いてる本人は、勝手に行間を補ってしまうので、こういった指摘は非常に有り難いです。この件についてはフォローアップを考えます。」

誤植 p.159 12行目 「cos 2x = 1-sin^2 」⇒「cos 2x = 1-2sin^2 x」 単純ミスです。
誤植 p.177 5行目 「ことわらなのである」⇒「ことわらないのである」
補足 p.181〜182 ページ
境目
「はじめにぬいぐるみを向ける方向」⇒「はじめにぬいぐるみを置く位置」の方が他の例との対応がよりよいかもしれません。ご指摘ありがとうございます。
補足 p.185 P.185の式はP.183の7行目からとってますが、どーせなら5行目の式を使った方がいいね。
誤植 p.186 1行目 指数関数の例題(112ページ) ⇒ 113ページです。
誤植 p.190 3行目 「(続き)= ◯◯◯◯ 改行 = ×××× 改行 となるだろう」で、◯◯◯◯は前頁とのつながりをよく見ると要らないですね。
誤植 p.194 式変形中「…」と書きたいところが軒並み「・」になってます。
補足 p.195 1行目 「y=log x は y=e^x と逆関数の関係にあることを利用する」の方が適切かもしれません。
補足 p.200 3行目 右辺で「h→」のあとにゼロが抜け。logのあとのxは不要です。つまり右辺は「lim{h→0} log (1+ h/x)^{1/h}」となります。
誤植 p.206 ゼロと無限大が逆になっています。「□は∞に行き、■は□の逆数でかつゼロに行くとき」 ⇒ 「□はゼロに行き、■は□の逆数でかつ∞に行くとき」
誤植 p.207 ゼロと無限大が逆になっています。「□は∞に行き、■は□の逆数でかつゼロに行くとき」 ⇒ 「□はゼロに行き、■は□の逆数でかつ∞に行くとき」
誤植 p.242 あちこち P.242の dt= の式の分子にある「2」は、分母にいくべきです。それに伴い、波及的にミスが発生します。大変申し訳ありません。
誤植 p.273 2行目 解答は「章末」ではなくて、「chapter 9」です。
補足 p.285 13行目 最後のf^(n) だけ「(a)」が抜けてしまいました。
誤植 p.289 4〜5行目 g(x)は「g(x)=14×-10」ですね。うっかり、イキオイで間違えました。g'(2)が14だからxの係数は14で決まり。「g(x)=14x+□」となって、次はg(2)=18で、g(2)=28+□となるから、□は「-10」ですな。すみません。
誤植 p.304 このあと、ごっそり原稿抜けがあります。ひぇー。抜けた分のむずビブ追加を用意しました(パスワードは medaka です)。
補足 p.308 10行目 「h’=…」となっていますが、当然「h'(x)=…」の意味です。
誤植 補足
プリント
p.3 π/2 ⇒ x/2

『数学のできる人できない人』

荒地出版社;大上丈彦 著

2002年04月刊 (1,800円+税)

タイトルから単純に連想されるような、ただ「できる人とできない人」を分類した本じゃなくて、メダカレ的テイストいっぱいの「メダカレ初心者」向け高校数学入門。『4次元の林檎』よりもひとネタが短めだから、すでに林檎を読んだ人には物足りないかなあ。まあ長編がお好みの読者は林檎の続編まで待ってちょうだい。

***目次***

  1. 数学のできる人できない人
  2. 数学の再構築
  3. 教科書の解読
  4. センター試験
数学のできる人できない人


本書記載のまえがきです。

はじめに

本屋さんをよく見ると『○○ができる人できない人』というタイトルの本がいくつかあった。もしかして流行ってる?
後発で似たようなタイトルの本を出すのは流行に乗っていていいような気もするし、

パチもん臭く

なったような気もするが、今さら変えられんのでこのまま出してしまう。ところで『できる人できない人』というタイトルの本を誰が買うのだろう。まず、できる人はそんな本は普通は買わない。できない人が買うのである。できない人は、その本を買ってできるようになるかというと、きっとならない。そこでまた別の本を買う。そう、

買うヤツは似たような本を何冊も買っている

のだ。それで市場が潤っているから、経済効果としてはいいことなのかもしれないが、

お前らは草食動物か?

と、ちょっと思う。そうやって食い物にされていていいのか?まあ筆者も何度も似たようなタイプの女を好きになり、何度も痛い目にあっているから人のことは全く言えないが、いつまでたってもできるようにならない人というのは、仮に「できる人できない人の違い」をいくら分析しても、分析しっぱなしで終わっちまってることが多いのである。分析結果(しかも、おそらくは正しい)を無視して女に惚れるヤツや根っからの草系は見捨てるとしても、数学に関しては、分析結果を参考にしてきちんとした対策を実行にうつせば、必ず遠からず「できる人」になれる。

それは数学が「技術」だからである。


本書は一応「高校数学」あたりをターゲットにした数学入門であるが、筆者としては別に

高校生だけを読者に想定していない。

高校生なんていう幸せな立場にいる人間は、近くにいる先生に習えばいいんだ。高校生とは、若さというすばらしい財産を持ちながらそれに気づかない人が大多数である愚か者集団(脚注1)である。未来において気づいたからといって、愚かでなくなるわけではないが、「もう歳だわ」とあきらめたら

愚かの上塗り

である。まずは10年前の自分を思い出そう。若かったと思う?

現在の自分は、10年後の自分に
「まだ若いよ」と言われるよ。

だから、心に残したことは今やり始めるべきである。今すぐだ。

脳は衰える。
学び始めに遅いということはないけど、遅いと不利だ。

数学は数ある学問の中でも「激しい系のスポーツ」のように、若いうちに始めないとなかなかできるようにはならない。筆者はアメフトはかなり歳を食ってから始めたが、若いときに(別のスポーツで)初心者だった頃とはワケが違った。昔は何も考えずバカみたいにトレーニングできたが、歳をとってから

それをやると体をブチ壊して御破算になる

というのは大きなジレンマだった。筆者の年齢だと、もう野球選手なら間違いなく「ベテラン」の域である。ベテラン選手がキャンプなどで自己流のトレーニングをする理由は、若いもんと一緒に練習して

壊しちまうと破滅するから

という面も少なくはない。「実力=体力+技術」だとすると、若いうちは体力でなんとかなるかもしれないが、歳をとると確実に体力は衰える。そのときになって「技術を身につけよう」と思っても遅い。選手生命を長くしたいのならば、

体力があるうちに、技術を身につけておくこと

である(脚注2)。慣れれば一発でできることも、習う段階では試行錯誤が必要で、この

「試行錯誤」が体力を要求する

のである。若い頃の試行錯誤は、技術的にはムダかもしれないが、将来的には必ず何かのプラスにはなる。だからやみくもに効率化して、試行錯誤の時間を減らすことに筆者は賛成ではない。数学でも同じで、一見してムダな「試行錯誤」が数学の学力を鍛える。しかし、「だから試行錯誤しろ」は乱暴である。これがまた一見正論に見えるから困りものだ。

つまらないところであえて試行錯誤しなくとも、
いつかはそうせざるを得ない日が必ずくる

から、苦労するのはそのときでいい。苦労を知らなくていいという意味ではない。苦労を知らないと、「初めてのつまらない躓き」であっさりリタイヤしてしまう。苦労話を聞かせるのもいいが、どうせそんなものは馬の耳に念仏だろう。できれば苦労を見せてやる方がいいが、それでもダメかもしれない。仕方のないことだ。苦労は自分の身に降りかかるまでは、残念ながら実感しないものである。このあたり、「ダメでもともと」的なスタンスでいるべきだろう。

通常、数学の本にはあまり「試行錯誤」の過程は書いていないが、筆者の本には書いてある。もちろんそれは、編集方針が違うから。試行錯誤は体力のない人にはつらいから、筆者が少しお手伝いしようというのである。お手伝いしている間に

筋トレして、本当に体力をつけて欲しい。

お手伝いがなくなった時点でできなくなるようでは、お手伝いした意味がない。大事なのは「試行錯誤のしかた」を見ておくことだ。強いチームの練習を見学したら、ついでに

休憩の取り方

も見学しておくとよいのと同じだ。そうすれば自分でやるときの参考になる。これを誰に向かって言っているのかというと、

  • 「昔、数学を一通り習った」くらいのレベルの人(脚注3)
  • 数学の先生(脚注4)

である。この二人が本書の仮想読者である。両者を満足させるような記述が可能のわけはないじゃないか、と思うかもしれないが、可能である、と筆者は思う。それは入門書の性格の問題だ。

「難しい概念を幼児語で語っても、
易しく説明したことにはならない」

は筆者の持論だが、ではどうすればいいのか。筆者の方法は

「新しい視点」を供給する方向性

である。

教科書のような言葉足らずな本は、それに「丁寧さ」を加えるだけで「わかりやすさ」が増す。数学を何か「彫刻」のようなものと考えると、その立体のイメージを伝えるのが入門書の仕事であるだろう。教科書はボロいカメラでそれを見ているようなものである。教科書の説明を丁寧にすれば、カメラが高性能になって画像がよく見えるようになる。普通の高校参考書はこれである。高精細な画像が得られれば「彫刻」の実体にかなり迫れることになるし、「彫刻」のイメージが頭の中に構築できるようになる人も増えてくる。ただし、この時点で今ひとつイメージを作りきれていない人は、これ以上の画像の高精細化は無駄だ。今ある参考書はもう限界に近いくらい丁寧にわかりやすく書かれている。それでもわからないのは「視点が固定だから」である。

「カメラさ〜ん、ちょっとアングル変えてもらえます?」

と言ってみよう。

丁寧な説明をしてもらっているのにわからないことがある。それは双方にとって辛いことだ。双方が自分を責めるという、よくわからない事態に陥るかもしれない。ヘタをすると双方が他人を責めるという、

泥沼な状態に陥るかも。怖っ。

聞き取れなかったことを言い直すことには効果があるが、聞き取れていることを言い直されると、

バカにされているように思われる

だけだ。勝手なもので、できないくせに「くどい」のは嫌いなのである。しかしそれは多くの場合は

質問する側に問題がある。

「同じ説明をされた」と思ったら、こうやって切り返してみよう。

「先生、違う説明はないですか?」

「先生、例をあげてもらえますか?」

あるいは、間違っていることを承知で適当なことを言ってみよう(脚注5)

「先生、例えばこういうことですか?」

そうすると「違うよー、だからさあ、例えばな…」と話が進むことが期待される。

それでもおんなじ説明を繰り返すような先生は、
先生の方にクリエイティビティが足りない。

時間の無駄だから、あきらめて次の先生を探そう。

ところでこういう一連のことを質問者側のせいだけにするのは、ちょっとかわいそうだ。

だって教えてないんだもの。

最近「ディベート」なるものを教育に取り入れようと頑張ってる高校もあるけれど、別にくだらない議論をすることだけがディベートじゃない。意味もわからず取り入れるから、

ただの「へりくつ大会」

になる。自分の知りたいことを相手からいかに聞き出すか。ディベートで学ぶべきは

コミュニケーション技術

のはずだ(脚注6)。こうやって筆者が「質問の仕方」とかを書くと、生徒側先生側の双方から非難されることもある。きっと、「人の心を弄んでいるようだ」ということなのだろうが、そういう人は

落語家や漫才師の苦労を知らない人だ。

テレビで見るような楽しいトークは一見普通に見えるけれども、

普通にみせるところがプロの技術

なわけで、ちっとも普通じゃない。その技術によって我々は弄ばれているだけなのか?そんなことはない。司会者の技術とは、適当な会話を意味もなく盛り上げることではない。むしろ出演者の考えていることや思っていることを正しく引き出して相手に伝えるための、潤滑油たる技術だ。これは訓練によってある程度身につけることができる。プロ中のプロになるためには才能も必要だが、基本的にトークの技術は才能ではない。

安易に才能だと決めつけるような人が、数学もできないんだ。

「やるかやらないかの違い」なのにそれを才能だと決めつけることは、多くの場合、ただの試合放棄である。どんなに簡単な技術も、やろうとしなければ身につくことはない。当たり前のことだ。話を戻すと、数学の先生は教えることのプロだから、ただ「わからない」と質問されたら、説明を聞いてないのか、あるいは聞いてもわからないのかをまず考える。聞いてないのなら言い直すだけだし、聞いてもわからないというのなら別の説明を考えなければならない。必要に応じて会話しつつ、何がわからないのかを聞き出して対処する。先生ならばこのくらいの指導技術は誰でも持っているが、それを上回る「わからない」は

先生もどうしていいかわからない

のである。犬のお巡りさんなら一緒になって泣いちゃうところである。だからそこから先は質問者の仕事。質問の角度を変えて攻めて、聞きたいことを引き出すのだ(脚注7)

というわけで、筆者は「新しい視点」を供給する方向性で、数学のできる人とできない人を同時に読者のターゲットとしたいと思っている。そうすると理論的には本書を読んで意味のない人は、きっと

数学ができる人で、教える立場にない人

だろう。まあ、万人向けの本なんてそもそも幻想である。


本書に書かれていることは、あくまで筆者の推理であり、フィクションである。見てきたようなウソが含まれている。これは「歴史」における「歴史小説」に対応するものだと考えていただきたい。歴史小説のまえがきに「この本はフィクションですよ」とわざわざことわっている本はないだろうが、それは歴史小説が世間的に認知されているからである。本書はいわば「数学小説」なのだが、このジャンルは世間的に認知されていない。まあ筆者が作ったのだから当たり前だが。

数学を無理矢理ドラマにしようとしても失敗するだろうが、何にでも

それにふさわしい表現方法

があるのだ。歴史は「小説」というカタチでエンターテイメントになる。それで楽しいと思えば、もっと学問的な研究に進むもいい。

研究の第一歩は、その道の楽しさを知ること

であるはずだ。数学はとくに、この第一歩が難しいために、多くの人が挫折していく。本書でもしも数学が楽しいと思ってもらったとして、それで終わりでももちろん構わない。歴史小説を読むだけで研究しない人の方が多数であるように。もっと学問的な研究に進むのもいい。世間に良書は既にあるから、筆者の仕事はそれを読めるようにすることだけである。

数学は、普通、学校や予備校からしか情報が得られない。例えば歴史なら、たとえ学校の授業がつまらなかったとしても、本来は映画のように

ロマンあふれてドラマチック

であることを知っている。英語なら、たとえ学校の成績が悪くとも、

人生に楽しみを増やしてくれるもの

であることを知っている。そしていずれも、

「能力的にできない」ということはあり得ない

と誰もが知っている。ドラマは誰にでも楽しめるエンターテイメントだし、英語はアメリカでは子どもでも普通に話している。
実は数学もそうなのである。ロマンがあって、楽しさをくれるものなのである。もし筆者がそれを伝えることができなかったら、それは数学がおもしろくないのではなくて、筆者の語りがヘタだからだ。この本で数学を嫌いにならないで、この本がつまらなかったら、あきらめずに別の語り部を探してもらいたい。もちろん、筆者が魂を削って仕上げたこの本で、数学を好きになってくれれば、筆者にとってこれ以上の喜びはない。



  1. ちなみに筆者は愚か者だったが。若いうちは、部活でもデートでもディズニーランドでも、
    とにかく何か楽しむことである。最悪なのは何もしないことだ。
    筆者は最悪(=何もしない人)ではなかった。

  2. もちろん人それぞれいろいろな考えがあるから、オレは体力を衰えないように鍛え続ける、
    という人もいていいだろう。しかし、そういう熱心な人は自動的に
    「技術」も身についてしまうものだ。

  3. 別に、一度もならっていない中学生も、このくらいのレベルだったりして。

  4. 世の中には思った以上に「数学の先生」は多い。
    アルバイトで家庭教師してるプチ先生さんも含めれば、
    いったい日本に何人の先生がいるのだろうか。
    そういった先生たちの指導技術を向上したら、数学のレベルはどれだけ上がるのだろう。
    わくわくするぜ。直接素人のレベルを上げようとはたらきかけるよりも、
    先生のレベルを上げるほうが簡単かつ効果的だと思う、筆者は。

  5. これは芸能人がクイズ番組でよく使う手で、「白紙答案」を出すくらいなら、
    ボケでもネタでも何でもいいから、とにかく思いつくことを解答しておくのだ。
    これは多少の訓練が必要だが、ただの技術である。
    才能の有無に関わらず、身につけることが可能なものである。

  6. ディベートとなると「説得」の方に重点がおかれやすいが、基本的に
    「議論とは、双方が意見を変える可能性を持っていて初めて成立する」ものである。
    つまり、自分も意見を変える可能性をもって臨まないと無意味なのだ。
    自分が意見を変えるというのは、人の意見を聞くことによってなされる。
    もちろん反論も意見を聞かないとできない。ディベートは雪合戦のような投げあいではない。
    相手の投げた球をよく見て、打ち返すことがディベートなのである。

  7. 芸能リポーターのような貪欲さを参考にしよう。
    筆者は芸能ニュースそのものにはあまり興味がないが、
    芸能リポーターの取材の仕方からは学ぶべきことがたくさんある。


本書ごく簡単な内容解説です。

第1章 言語としての数学

世の中には「算数は好きだったけど、数学はなあ」という人は意外に多い。なぜそうなってしまうのか。

教え方が悪いからである。傲慢だからである。

というか、教えるところが間違っているのである。授業を聞く側が、「教わり方を知らない」のに、ムリヤリ有り難い「教え」を押しつけるからおかしなことになる。きっとそもそも「教わり方を知らない」なんて、発想したことさえないだろう。

それを傲慢だ、というのだ。

「難しい」と言われるもので、本当に難しいものはそれほどないのである。この章では、今まであまり教えてもらったことがないはずの「教わり方」について言及している。

第2章 数学を作り直す

料理学校では、カレーを小麦粉とカレー粉から作る。コンピュータのプログラミングを学ぶなら、今も昔もアセンブラである。どちらも日常の用途としては

全く役に立たない。

カレーなんか、ルーを入れればそれで終わりだし、今どきアセンブラでコーディングをする人は頭がおかしい。ではなぜ、基礎として、そういうことをやってみるのか。

どんな複雑怪奇なシステムも、単純な部品の組み合わせで実現されている、ということを身をもって知るため

である。電子レンジの回路を知らなくても電子レンジを使うことはできる。しかし原理を知らないと、うっかり「魔法」と思ってしまう可能性はある。もちろん我々は電子レンジに慣れているから「魔法」とは思わないだろうが、ジャングルの奥の電気のない村に生まれた「電子レンジを初めて見る人」を想像してみよう。できない人にとっては、数学は魔法のように感じられているはずだが、それはなぜなのか。もうおわかりだろう。そういう人は、

一度自分で作ってみればいい

のである。そうはいっても、なかなかそんなバカなことはしない。できないヤツに限って、「すぐに使える」とか「実用」という言葉に踊らされるんだよね。というわけで、この章では、普通の入門書には載っていなさそうな「数学の作り方」を解説している。論理学、式処理の限界、ベクトル・三角関数・グラフの存在価値、といった数学の小ネタを題材に、数学全体を見渡してみよう。

第3章 教科書の書き方を検証する

この章は第2章で述べたことの実践検証である。教科書の、平行移動・数列の和・複素平面について、それらのアイディアと、「なぜそういう教え方をするのか」をあわせて解説している。いかに高校生がきちんと教わっていないかがわかるだろう。それは教わる側の責任ではない。教える側の責任である。先生は「マジメな優等生」をかわいがる傾向があるが、

そういうことをするとロクなことにならない。

いつの世でも、魅力的なのは「ちょっと不良」だ。

第4章 大学入試センター試験

さらに実践検証を続けるつもりで、センター試験を斬ろうと思ったが、ページの関係で全てを本に載せることができなくなってしまった。本誌では、本文中と関係の深い問題をピックアップして解説しているが、はみ出した分はメダカレからダウンロードできるのでコンテンツのページを参照して欲しい。もちろんこれは、本を買っていない人でもダウンロード可能である。

解説 八木祐紀

八木氏の解説は、解説というより、それだけでひとつの主張となっているようだ。一冊の本に2つの主張があるのは普通ならおかしなことかもしれないが、メダカレ的にはアリである。大上氏は自分の原稿のページは削っても、このエッセイのページは削らなかった。この『数学をできる人できない人』や、メダカレのコンセプトが端的に語られた、わがまま系ショートエッセイ。



本書の誤植と補足です。

誤植の情報を送ってくれた皆様、ありがとうございます。

誤植と補足 <2007-08-21現在>
内容 page 位置 コメント
誤植 p.20 脚注下から2行目 「トミージョン」→「トミー・ジョン」
誤植 p.39 11行目 「<自然数> ::==」 → 「<整数> ::==」
誤植 p.45 3行目 「2を足したもの」 → 「2を引いたもの」
誤植 p.61 2行目 「思わないこと は ないが」→「思わないこと も ないが」
誤植 p.61 下から8行目 「こじんまり」→「こぢんまり」
誤植 p.83 3行目 「数学は算数して」→「数学は算数を」
誤植 p.88 1行目 「発明しようとしているとは」→「発明しようとしている の とは」
誤植 p.102 最下行 「f)β)」→「f(β)」
誤植 p.112 下から2行目 x^2 + y^2 – 9 = 0 または x + y – 1 = 0 です。「=0」が抜けています。
補足 p.134 脚注 脚注でコメントされている2002年大学入試センター試験の解説はこちらです (PDF文書のパスワードは medaka です)。
誤植 p.141 8行目 「0から90°まで」→「0°から90°まで」
誤植 p.170 脚注 句点がなぜか2つあります。もちろん1つで十分です。
誤植 p.183 11行目 「頂点の位置が(−3,4)なら平行移動も(−3,4)だな」 ⇒ 正しくは「頂点の位置が(−3,−4)なら平行移動も(−3,−4)だな」です。
誤植 p.205 17行目 「立場が再弱」 → 「立場が最弱」
誤植 p.227 12行目 「誰かが画期的」→「誰か画期的」
誤植 p.230 あちこち 「…」となるべきところが「・」になってたりします。
誤植 p.234 7行目 「r!」 は左辺の分母ですね。
誤植 p.256 7行目 「a+b の偏角」→「ab の偏角」